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浜田の発展と歩兵第二十一連隊(所感付き要約)

「浜田連隊史」「浜田連隊秘史」ほか地域資料をもとに、数字・固有名詞・年代をできるだけ残して整理しました。浜田市との関わりや、読み手としての私の所感も適宜添えました。

歴史の出来事を紹介するページです。評価・賛否を誘導する意図はありません。記載は作成時点の資料に基づきます。


このページについて

原資料の語句や数字を要所でそのまま生かし、見出し・表・折りたたみで読みやすく並べ直しました。個人的な思いは所感として枠内にまとめて添えました。

所感:所感:郷土の発展と連隊の歴史は切り離せませんでした。今回連隊史、連隊秘史を何回か読み直しましたが、ほんとに浜田の発展に寄与したとおもいます。

1.概観(浜田と連隊の関係)

要点内容
移駐と経済 明治31年7月24日、歩兵第二十一連隊が広島→浜田に移駐しました。歓迎は「約五万人」。軍人・家族ほか約2000人が移り、兵舎・練兵場・官舎整備、物資需要、宿泊・飲食の拡大で経済が一気に動いたと記録されています。
医療・都市化 浜田衛生病院→陸軍病院→国立病院→医療センターと施設が継承され、医療の土台が築かれました。昭和15年 市制施行(松江に次ぐ県内2番目)。
教育・雇用の波及 旧制女学校の設置や職業の多様化、土木・運輸・商業の雇用創出に波及がありました(当時の資料の表現を反映)。
浜田との関係メモ:兵舎・橋梁(中芝橋・浜田橋ほか)整備、浜田駅開業、市制施行の気運、慰霊・墓地の維持、戦災・水害対応など、行政・民間・連隊の接点が随所に残っています。 出典:連隊史・秘史、地域資料メモ
所感:連隊移駐は「発展のスプリングボード」と記されますが、裏側には兵士と家族の暮らし、徴発や統制、地域の負担もありました。両面を見ることが郷土史には必要だと考えています。 後日お聞きした話ですが、女学校卒業の桜江町出身の女性が戦後吉田総理大臣の側近として活躍された21連隊出身の将校と結婚されたことをお聞きしました。

2.連隊の年表(抄)

年(西暦)出来事
1872(明治5)陸軍省・海軍省創設、徴兵制開始。
1873(明治6)広島鎮台創設。
1887(明治20)歩兵第21連隊編成(3大隊12中隊)11月29日 完成
1888(明治21)第5師団編成。
1894〜1895(明治27〜28)日清戦争(安城渡・木口小平)。
1900(明治33)北清事変(北京総攻撃:死者21、負傷70の記録)。
1904〜1905(明治37〜38)日露戦争(奉天:戦死233/負傷802)。
1898(明治31)7/24 浜田へ移駐
1912〜1926(大正期)満州駐留/大正7年(1918)浜田米騒動(留守隊対応)。
1937〜(昭和12〜)支那事変(8/23 万里の長城「一番乗り」)。
1941〜1945(昭和16〜20)太平洋戦争(マレー上陸〜2/15シンガポール)。ニューギニア・ジャワへ。
1945(昭和20)8/31 セラム島で軍旗奉焼翌年1946/5/29 田辺港上陸・復員。
背景メモ(天津条約〜日清戦争)

明治17(1884)天津条約/明治27(1894)東学党の乱など。軍歌「安城の渡」。

所感:橋や学校、病院の由来を知ると、毎日の景色が違って見えます。慰霊の場に立つと、発展の影にあった犠牲に自然と足が止まります。陸軍墓地は浜田市長沢町にあり、 現在は長沢公園として浜田市か管理しています。そして年4回長沢公民館が公民館行事として清掃作業を行っています。毎回の参加者は30人前後です。

3.浜田の発展と施設・出来事

都市・インフラ要点
兵舎・練兵場・官舎「空前絶後の一大工事」。関連土木や橋梁(中芝橋・浜田橋ほか)が整備されました。
鉄道・駅浜田駅開業で交通結節が強化され、物資・人の流れが活発になりました。
市制昭和15年 浜田市誕生(浜田町+石見・長浜・周布・美川)。
医療・教育・雇用要点
病院の継承明治31年 浜田衛生病院併用→昭和11年 浜田陸軍病院→終戦後に国立病院へ。
水害対応昭和18年9月14日水害で前後1000名出動、物資支援。町民3500名の生活支援1か月。
戦後の拠点2000年県立大学浜田キャンパス、2008年 浜田旭刑務所(定員2000人630人)、職員180・民間330・計510名の記載)など、雇用と人の往来が続きました。
墓地・慰霊・護国

明治34年に長沢(浜田)陸軍墓地へ移転。昭和5年 忠霊塔昭和32年市へ無償貸付。昭和14年 浜田護国神社。合祀:維新13/西南63/日清144/北清179/日露829/第一次11/第二次21657(計22896)。

所感:橋や学校、病院の由来を知ると、毎日の景色が違って見えます。慰霊の場に立つと、発展の影にあった犠牲に自然と足が止まります。

4.個人史・エピソード(抜粋)

お名前(仮称含む)要点
出雲市の斎藤さん(仮称) 最初の徴兵で大陸へ、負傷帰国。二回目の徴兵で硫黄島へ戦死。遺骨収集、長沢陸軍墓地の墓確認依頼の記録。
出雲市の井上さん 昭和14年徴兵で大陸へ。浜田で送別写真昭和17年戦闘監視中に負傷、所属三木部隊全滅。病院船で東京へ、除隊。昭和20年8月再徴兵、伯備線新見付近で被爆報道により広島行きを断念し出雲へ。
NHKラジオの証言(要約)
  • 102歳・なんばさん昭和15年中国での行軍40〜50km昭和17年ニューギニアで体重−20kg昭和20年被雷後の漂流など。
所感:送別写真や手紙の文面は、数字の背後にある生活を教えてくれます。固有名や日付を正確に残すことが、個人の足跡を守る最初の一歩だと思っています。

5.主な作戦・戦闘の要点

日清・北清・日露(明治)

支那事変・ノモンハン

太平洋戦争

周辺戦:硫黄島・アッツ島(資料メモ)
  • 硫黄島:日本側約20933戦死、米側6821戦死。
  • アッツ島昭和18年5月「玉砕」の語が広まった戦闘。
所感:作戦名や地名は覚えやすいですが、現地の地形・雨季・補給といった条件が勝敗を左右しました。地図と天候表を添えると、体感が変わると感じています。

6.師団・編制のメモ

第5師団(広島)概略
主要部隊(終戦時)歩兵第11(広島)・第21(浜田)・第42(山口)連隊、野砲・捜索・工兵・輜重・衛生・通信・勤務・野戦病院ほか。
編制の目安人数
分隊/小隊/中隊7/30/約300
大隊/連隊/師団約1000/約3000/約15000(当時の目安)
補充隊の差出(抜粋)

昭和12年9月350名、10月下旬500名、昭和13年1月以降も多数。昭和15年には1500名差出など頻繁な補充。

所感:補充隊の訓話に「立つ鳥は後をにごさず」があります。出征前に兵舎を清め整える所作に、当時の規律観と不安が重なって見えます。浜田の補充隊から21連隊以外にも派遣された人が相当考えられます。

7.連隊史・秘史の発刊経緯

刊行物内容・経緯
浜田連隊史(昭和48年4月)8年の歳月 主な執筆者:浜田市6(浅井町 梨田 精 少佐・元市長)、松江市2(田辺 仁 少佐)、益田市2、大田市1、邑智郡1、出雲市1 ほか。岸本清之中尉の保存資料の発見が大きく貢献。
浜田連隊写真集(昭和55年) 写真資料を補完。
浜田連隊秘史(昭和62年12月)寄稿約120名 昭和57年9月寄稿依頼→昭和58年執筆・編集着手。編者は手術をはさみながら満5年で刊行。
周辺メモ

辰巳栄一 元中将のご縁、昭和41年の連隊日除幕式出席、当初計画より発行優先とした経緯など。

所感:証言の寄稿が120名証言の寄稿が120名集まった事実に重みを感じます。集める側の体調や時間との闘いも含め、資料保存の営み自体が「地域の力」だと思います。 私自身、連体史、連隊秘史発行の中心的な役割を果たされた岸本氏の実家をおとずれましたがすでにお亡くなりになっていましたが、近所の人のお話では非常に最後まで本の評判を気にされていたとの事でした。

8.終戦・復員と戦後の記憶

戦争犯罪・裁判(資料項目)

A・B・C級の区分、各地の軍事法廷、判決と執行の記録(例:スンガイ村事件)。

所感:帰還の行路や解散の訓示には安堵と挫折が同居します。戦後の浜田が病院・学校・橋を守り、次の世代の暮らしを作り直していった道のりを、現在の生活に重ねて見つめ直したいです。又帰郷前の戦地での生活も現地での人々に溶け込み生活をしていたことを知り大変驚きました。

出典:浜田連隊史(昭和48年)、浜田連隊写真集(昭和55年)、浜田連隊秘史(昭和62年)ほか地域資料のメモ。固有名・数字は当時の表記に従いました。