導入 石見焼の視界
浜田を中心に栄えた石見焼は、かつて数百の窯が並ぶ一大産業でした。朝鮮陶工の技法伝来や在地の土に支えられ、近代には同業組合の設立をへて名称や規格を統一。現在は3軒の窯元が特色ある製品を安定して生産し、展示販売や体験を通じて地域文化として息づいています。
一章 誕生と起源
石見地方での本格的な陶器生産は、朝鮮出兵(1592–1598)の際に領主が陶工を伴ったことに始まると伝えられます(浜田市田町の伝承、吉賀町柿木村の唐人焼窯跡の登窯・製品・窯道具など)。ただし、その生産がどれほど継続したかは不明で、石見焼の直接の起源とは言い切れません。
確実に石見焼に近い陶器や窯跡が確認できるのは江戸時代後期以降。石見焼の始まりには、いまなお多くの謎が残ります。
二章 石見焼の特徴と生産地
18世紀末〜19世紀、浜田藩・津和野藩・大森銀山領で盛んに生産。厚手で堅牢、耐水性に優れ、はんど・壺・すり鉢・片口鉢などの実用品を大量に供給しました。粘土は宇野町周辺の良質な土が用いられました。
石見地域の市町村別「窯跡」概観(資料抄)
| 地域 | 陶器 | 瓦陶器 | 瓦 | 計 | 物産会員数(参考) |
|---|---|---|---|---|---|
| 大田市 | 18 | 11 | 29 | 58 | 6 |
| 江津市 | 85 | 21 | 83 | 185 | 7 |
| 三郷町 | 1 | – | 7 | 8 | – |
| 川本町 | – | – | 7 | 7 | – |
| 邑南町 | 1 | 1 | 22 | 24 | – |
| 浜田市 | 67 | 16 | 37 | 120 | 6 |
| 益田市 | 4 | 6 | 31 | 41 | 1 |
| 津和野 | 3 | 1 | 6 | 10 | – |
| 吉賀町 | 1 | – | – | 1 | – |
| 計 | 180 | 56 | 222 | 296 | 不明16 |
三章 近代の石見焼:組合と大量生産
- 明治36年(1903) 同業組合を設立(温泉津・江津・浜田の製造業者)。
- 名称を「石見焼」へ統一(従前:温泉津焼・江津焼など地域名)。
- 検査規格を定め、はんど・壺・すり鉢・片口鉢などを大量生産。
燃料と冬仕事の記憶(戦後)
昭和40年代まで登り窯の燃料は松。たたら製鉄・瓦工業との松材争奪があり、冬は工場を休みにして山の視察・立木購入・伐採・現地作業(「だいそく」)・馬車での運搬など、燃料確保に明け暮れたという記憶が残る。
ろくろの変遷
- 昭和30年代以前:足蹴りろくろ
- 昭和30年代以降:電気ろくろが中心に
四章 伝統工芸指定と後継者
- 平成6年 通産省の伝統的工芸品に指定(島根県内4番目)。
- 伝統工芸士:経験10年以上、2斗はんど(丸物)を作製できる力量など。
- 大物成形の後継者が課題。江津の名工安藤三郎氏(95歳で逝去)は長浜人形の継承にも尽力し、神楽面にも影響。
技術メモ 焼成(ガス窯と温度)
- 窯・製品の除湿:400℃まで約6時間
- 200〜800℃は毎時60〜70℃上昇、以後1250〜1320℃まで毎時約100℃
- 到達後10〜30分保持→ ガス停止
- 自然冷却3日→ 約300℃で扉を少し開け、100℃で取り出し
- 出荷 ※素焼きは約800℃
五章 職人の往来(出稼ぎ)
江戸後期〜明治、石見の職人は他国へ焼き物・瓦・大工・左官などで出稼ぎ。明治8年、鳥取藩から江津小川家に石見職人の派遣依頼文書が確認されている。
六章 今日の活動と調査
- 島根県物産協会(平成22年度):各業種計537名、そのうち陶器69名。
- 石見陶器工業組合の展示即売会:東京(2月・伝統工芸展)/姫路(10月・全国陶器祭り)/江津(11月・地場産祭り)ほか、米子・松江・出雲・浜田など年5〜7回。
- 令和5年2月・銀座:島根の招き猫工房(渡辺真奈美さん/三隅・夕日パーク販売)出展、好評。神楽面(柿田商店)も。
- 吉田製陶所:島根県立出雲古代博物館の建屋実測(乾燥小屋)。令和4年10月〜令和5年5月まで調査・図面化。
- 島根県教育庁 文化財課:近世近代在地陶磁器調査(令和4〜7年度)。石見焼の製作技術や窯業遺跡・伝世資料を実測・撮影・記録化。
七章 浜田の現況と展望
浜田市内の3窯はいずれも特色ある製品を安定生産。絵付け体験や見学、展示販売を通じて、地域の暮らしに根ざした工芸として再評価が進んでいます。大量生産の時代から、「地域の顔をつくる手仕事」へ。技術継承・人材育成・発信の仕組みを丁寧につなぐことが、これからの鍵です。
写真 石見焼・窯元の記録
結び 受け継ぎ、ひらく
石見焼は、土・火・水・松、そして人の往来と工夫に支えられてきました。燃料と時間と向き合った記憶は、いまも窯の壁に残っています。伝統は工芸士だけのものではなく、地域の記憶として生き続けるもの。浜田の暮らしとともに、これからも。